2006年11月25日

「コロネル シバ」


「マスコミが伝えない親日の話」より

http://mikomo.hp.infoseek.co.jp/index.html



ちょうど100年前の1902(明治35)年1月30日、日英
同盟が成立した。同盟締結を推進したのは、駐日公使マグドナ
ルドであった。マグドナルドは前年夏の賜暇休暇にロンドンに
帰るとソールズベリー首相と何度も会見し、7月15日には日
本公使館に林菫公使を訪ねて、日英同盟の構想を述べ、日本側
の意向を打診した。マグドナルドは翌日も林公使を訪問して、
イギリス側の熱意を示した。それからわずか半年後には異例の
スピードで同盟締結の運びとなった。

 イギリスが日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐとい
う点で利害が一致したからである。しかし、当時の超大国イギ
リスがその長年の伝統である「光栄ある孤立」政策をわずか半
年で一大転換し、なおかつその相手がアジアの非白人小国・日
本であるとは、いかにも思い切った決断である。その背景には
マグドナルド公使自身が一年前に経験した一大事件があった。

 1985(明治28)年、日清戦争に敗北して、清国が「眠れる
獅子」ではなく「眠れる豚」であることを露呈するや否や、列
強は飢えた狼のようにその肉に食らいついていった。三国干渉
により日本に遼東半島を返還させると、それをロシアがとりあ
げ、同時にドイツは膠州湾と青島、フランスは広州湾をむしり
とる。イギリスは日本が日清戦争後にまだ保障占領していた威
海衛を受け取り、さらにフランスとの均衡のためと主張して香
港島対岸の九龍をとった。

 こうした情況に民衆の不満は高まり、義和団と称する拳法の
結社があらわれた。呪文を念じて拳を行えば、刀槍によっても
傷つくことはない、と信じ、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を
滅ぼせ)」をスローガンとして、外国人やシナ人キリスト教徒
を襲うようになっていった。

 5月28日、義和団の暴徒が北京南西8キロにある張辛店駅
を襲って、火を放ち、電信設備を破壊した。北京在住の列強外
交団は、清国政府に暴徒鎮圧の要求を出す一方、天津の外港に
停泊する列国の軍艦から、混成の海軍陸戦隊400名あまりを
北京に呼び寄せた。日本も軍艦愛宕からの25名の将兵が参加
した。今風に言えば多国籍軍である。

 6月4日、北京?天津間の鉄道が、義和団によって破壊され
た。北京の外交団は万一の場合の脱出路を奪われた形となった。
すぐに2千の第2次混成部隊が出発したが、鉄道の修復に時間
がかかり、いつ北京にたどり着けるか、分からない状態だった。

 北京の公使館地域は東西約9百メートル、南北約8百メート
ルの方形であり、ここに欧米10カ国と日本の公使館があった。
6月7日、各国の公使館付き武官と陸戦隊の指揮官がイギリス
公使館に集まって、具体的な防衛計画が話し合われた。

 日本の代表は、この4月に赴任したばかりの柴五郎中佐であ
った。柴は英仏語に堪能で、また地域の詳細な防御計画も持参
していたが、始めのうちは各国代表の議論を黙って聴いていた。
日本の兵力が少ないこともあったが、まずは各国の人物、能力
を見極めようという腹だった。さらに東洋人がいきなり議論を
リードしては欧米人の反発を招くということも十分に心得てい
た。

 柴は会議の流れを掴むと、目立たない形で、自分の計画に合
う意見については「セ・シ・ボン(結構ですな)」と賛意を示
し、また防御計画の要については、ちょっとヒントを与えると、
別の列席者がさも自分の発案であるかのように提案する、とい
う形で、巧みに議論を誘導して、自分の案に近い結論に持って
いった。
 6月11日、日本公使館の杉山書記生が惨殺された。救援部
隊が来ないかと北京城外に出て、戻ろうとした所を清国の警備
部隊に捕まり、心臓を抉り抜かれ、その心臓は部隊長に献上さ
れた。外交団は治安維持の頼みとしていた清国官憲までも外国
人襲撃に加わったことに衝撃を受けた。

 13日、公使館区域に4,5百人の義和団が襲いかかった。
おおぜいたむろしている清国官兵は、見て見ぬふりをしている。
しかし刀や槍を振り回す暴徒は、列国将兵の銃撃に撃退された。
14日、怒った暴徒は、公使館区域に隣接するシナ人キリスト
教民の地域を襲った。凄まじい男たちの怒号と、女子どもの悲
鳴が公使館区域まで聞こえてきた。一晩で惨殺された教民は千
人を数えた。

 15日、タイムズの特派員G・モリソンはイギリス公使マグ
ドナルドを説き、20名の英兵を率いて5百人余りの教民を救
出してきた。しかし、それだけの人数を収容する場所がない。
困ったモリソンが、シナ事情に詳しそうな柴中佐に相談すると、
柴は即座に公使館地域の中央北側にある5千坪もの粛親王府を
提案した。粛親王は開明派で、日本の近代化政策を評価してい
た。柴が事情を話してかけあうと、教民収容を快諾した。

 この王府は小高くなっており、ここを奪われれば、公使館地
域全体を見下ろす形で制圧されてしまう。この事に気づいてい
た柴は教民たちを動員して保塁を築き始めた。欧米人と違って、
日本人の多くはシナ語を話せたため、彼らは日本兵によくなつ
き、熱心に協力した。また30名ほどの義勇兵も出て、日本軍
と共に自衛に立ち上がった。

 6月19日、シナ政府から24時間以内に外国人全員の北京
退去を命ずる通牒があった。抗議に赴いたドイツ大使は清国兵
にいきなり銃撃され、即死した。

 20日午後からは、地域の警備についていた清国軍が公然と
攻撃を始めた。暴徒とは異なり近代装備を持つ清国軍は大砲ま
で持ち出して、公使館区域を砲撃した。

 最初の2日間の戦いで区域の東北端に位置するオーストリー
とベルギーの公使館が火を放たれて、焼かれた。西正面と北正
面を受け持っていたイギリス兵は、イギリス公使館が西から攻
撃を受けると、そちらに移動してしまった。

 北正面ががらあきとなり、清国軍が侵入するには絶好の隙間
が生じてしまった。少数の日本将兵と教民たちがたてこもる北
辺の粛親王府が破られれば、そこから清国軍は区域全体を見下
ろし、砲撃することができる。清国軍は激しい攻撃を加えてき
た。

 区域全体の総指揮官に推されたイギリス公使マグドナルドは、
粛親王府の守備を固めるために、イタリア、フランス、オース
トリー、ドイツの兵に柴中佐の指揮下に入るよう命じたが、兵
達は土地は広く、建物は迷路のように錯綜する王府を見ると、
「とてもじゃないが守りきれない」とそれぞれ自国の公使団保
護に帰ってしまった。

 王府防衛の有様を柴中佐の指揮下に留まっていたイギリス人
義勇兵の一人B・シンプソンは次のように日記に記した。

 数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍
は、王府の高い壁の守備にあたっていた。その壁はどこま
でも延々とつづき、それを守るには少なくとも5百名の兵
を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵ま
れていた。公使館付き武官のリュウトナン・コロネル・シ
バ(柴中佐)である。・・・

 この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。
彼は部下たちを組織し、さらに大勢の教民たちを召集して、
前線を強化していた。実のところ、彼はなすべきことをす
べてやっていた。ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒し
ていることを感じる

 この後、王府を守る柴中佐以下の奮戦は、8月13日に天津
からの救援軍が北京に着くまで、2ヶ月余り続く。睡眠時間は
3,4時間。大砲で壁に穴をあけて侵入してくる敵兵を撃退す
るという戦いが繰り返し行われた。総指揮官マグドナルド公使
は、最激戦地で戦う柴への信頼を日ごとに増していった。イタ
リア大使館が焼け落ちた後のイタリア将兵27名や、イギリス
人義勇兵を柴の指揮下につけるなど迅速的確な支援を行った。

 6月27日には、夜明けと共に王府に対する熾烈な一斉攻撃
が行われた。多勢の清国兵は惜しみなく弾丸を撃ちかけてくる。
弾薬に乏しい籠城軍は、一発必中で応戦しなければならない。
午後3時頃、ついに大砲で壁に穴を明けて、敵兵が喊声を上げ
ながら北の霊殿に突入してきた。柴は敵兵が充満するのを待っ
てから、内壁にあけておいた銃眼から一斉射撃をした。敵は2
0余の死体を遺棄したまま、入ってきた穴から逃げていった。
この戦果は籠城者の間にたちまち知れ渡って、全軍の志気を大
いに鼓舞した。

 イギリス公使館の書記生ランスロット・ジャイルズは、次の
ように記している。

 王府への攻撃があまりにも激しいので、夜明け前から援
軍が送られた。王府で指揮をとっているのは、日本の柴中
佐である。・・・

 日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士
官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。日本兵の勇
気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵がこれに
つづく。しかし日本兵がずば抜けて一番だと思う。
 王府を守りながらも、柴中佐と日本の将兵は他の戦線でも頼
りにされるようになっていった。アメリカが守っている保塁が
激しい砲撃を受けた時、応援にかけつけたドイツ、イギリス兵
との間で、いっそ突撃して大砲を奪ってはどうか、という作戦
が提案され、激しい議論になった。そこで柴中佐の意見を聞こ
うということになり、呼び出された柴が、成功の公算はあるが、
今は我が方の犠牲を最小にすべき時と判断を下すと、もめてい
た軍議はすぐにまとまった。

 イギリス公使館の正面の壁に穴があけられ、数百の清国兵が
乱入した時は、柴中佐は安藤大尉以下8名を救援に向かわせた。
最も広壮なイギリス公使館には各国の婦女子や負傷者が収容さ
れていたのである。

 安藤大尉は、サーベルを振りかざして清国兵に斬りかかり、
たちまち数名を切り伏せた。つづく日本兵も次々に敵兵を突き
刺すと、清国兵は浮き足立ち、われさきにと壁の外に逃げ出し
た。館内の敵を一掃すると、今度はイギリス兵が出撃して、3
0余名の敵を倒した。安藤大尉らの奮戦は、イギリス公使館に
避難していた人々の目の前で行われたため、日本兵の勇敢さは
讃歎の的となり、のちのちまで一同の語りぐさとなった。

 後に体験者の日記を発掘して「北京籠城」という本をまとめ
上げたピーター・フレミングは本の中でこう記述している。

 戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバ
ックボーンであり、頭脳であった。・・・ 日本軍を指揮
した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあっ
たばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。

 当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、
この籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生
として、みなの目に映るようになった。

 日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の
賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接
的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本
人だけである。

 救援の連合軍が、清国軍や義和団と戦いながら、ついに北京
にたどりついたのは、8月13日のことだった。総勢1万6千
の半ばを日本から駆けつけた第5師団が占めていた。その他、
ロシア3千、英米が各2千、フランス8百などである。籠城し
ていた柴中佐以下は、ほとんど弾薬も尽きた状態だった。

 14日、西太后の一行は西安に向けて脱出した。その午後、
北京入城後最初の列国指揮官会議が開かれた。冒頭マグドナル
ド公使が、籠城の経過について報告した。武器、食糧の窮迫、
守兵の不足、将兵の勇敢さと不屈の意志、不眠不休の戦い、そ
して公使は最後にこう付け加えた。

 北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰す
べきものである。

 柴中佐が日本軍将兵と日本人義勇兵にこの言葉を伝えると、
嗚咽の声が漏れた。誰もが祖国の名誉を守り、欧米の人々から
も認められた誇らしい感情を味わっていた。

 柴中佐はその後も日本軍占領地域では連合軍兵士による略奪
を一切許さず、その治安の良さは市民の間のみならず、連合軍
の間でも評判となった。

 柴中佐には欧米各国からも勲章授与が相継ぎ、またタイムズ
の記者モリソンの報道もあいまってコロネル・シバは欧米で広
く知られる最初の日本人となった。その後、総指揮官を務めた
マグドナルドは駐日大使に転じ、日英同盟の締結を強力に押し
進めていくことになる。柴中佐と日本将兵の見せた奮戦ぶりか
ら、日本こそは大英帝国が頼みにするに足る国と確信したので
あろう。
posted by Ojiron at 14:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の誇り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月12日

『父親達の星条旗』見てきました.

近くのシネコンで,映画を見てきました.
夜8時以降だと,¥1000で見ることができるので,
見たい映画があると,結構夜見に行くことが多いですね.


今日は,CMとか予告編を見てて,かなり見たいと思っていた,
『父親達の星条旗』を見てきました.

監督は,クリント・イーストウッド

『ダーティハリー』役でおなじみですね.


この映画の舞台は,第2次大戦末期の硫黄島

日本にとってもアメリカにとっても,軍事上重要な拠点だった
『硫黄島』をめぐる攻防は,今も語り継がれています.


1945年2月19日,アメリカ海兵隊は,硫黄島への上陸を開始.

同3月26日まで,日本軍の抵抗が続きました.

日本軍は21,000名の守備兵力のうち20,129名が戦死.

アメリカ軍も,戦死者 6,821名,負傷者21,865名の大損害を受けました.

太平洋戦争後期の島嶼防衛戦で,アメリカ軍の損害が日本軍の損害を
上回った唯一の戦闘だったそうです.→Wikipedia:硫黄島の戦い


上陸したアメリカ軍の第1目標とされたのは,硫黄島南部の
“摺鉢山”の攻略.

この山を占拠後,山頂に立てられた『星条旗』が,この映画の
中心になります.

Iwo Jima flag raising

この写真を撮影した,AP通信の写真家ジョー・ローゼンタールは,
後に『ピューリッツァー賞(写真部門)』を受賞しました.


戦場を駈けずり回る兵士の葛藤,戦争のヒーローを作り上げたい,
アメリカ政府.戦費調達のためのプロパガンダ...

翻弄される主人公達の心の“揺れ”がメインテーマになって
います.



映画の冒頭から続く圧倒的な戦闘シーン.

『戦争って,こういうことなんだ...』ってことを,
本当に実感できる気がします.

よく,祖父母世代から,戦時中の悲惨な状況を,資料で見たり,
聞いたり,そういう体験って,結構あると思います.

でも,実際に戦場で起こっていたことは,なにかしら,
フィルターが掛かって,ぼんやりとした実感がわかない,
何かハッキリしないような,そんな認識でしかなかった.

それが,画面を通じて語りかけてくる圧倒的な『現実』に,
戦争の悲惨さが,心の奥深くまで,染み込んでくる,そんな
印象でした.

映画としては,どちらかというと,戦争シーンよりは,
主人公達の苦悩がメインではありますが.



硫黄島で戦った我々の“祖父”達は,何を思い戦ったのか?

恐らく,硫黄島の後ろいる遠い祖国,彼らの愛する家族,兄弟,親を
思っていたのではないでしょうか?

『ここで1日持ちこたえれば,それだけ本土決戦を伸ばせる』と.

日本軍,アメリカ軍,ともに戦争の犠牲になった方々に
敬意を捧げたい気持ちでいっぱいですね.


でも,今の日本は,彼らが守るに値する国であったかどうか,
本当に恥ずかしく感じることが多いです.

靖国で眠る英霊に,感謝の気持ちを忘れないで,
生きていたい,そう思います.



この映画,硫黄島の戦いを日米双方の視点から描いた
「硫黄島プロジェクト」のアメリカ側視点の作品だそうです.

もう1本,日本側の視点から描いた,『硫黄島からの手紙』も,
間もなく公開になります.

硫黄島でアメリカ兵と死闘を繰り広げた栗林忠道中将指揮による
日本軍と祖国に残された家族らが描かれます.

ストーリーはタイトルとなっている栗林中将が家族へと向けた手紙を
基に展開されるそうです.

栗林中将役は,渡辺謙さんだとか.

こっちの映画も楽しみです.


劇中で,アメリカ軍の指揮官が,隊員に作戦の説明を
するシーンがあります.

『今度は,サイパンやグアムとは訳が違う.
 正真正銘の日本の領土だ.
 心してかかるように.』(うろ覚えですが・・・)

と,隊員に語りかけます.

サイパンやグアムは,日本軍の侵攻で得た領土ですが,
硫黄島は,元々の日本の領土.

『得たものを手放す』のと,『保持していたものを手放す』
のは,違う次元ということですね.

硫黄島を守った日本兵達は,それを十分わかって
いたことでしょう.

その一方で,戦後,韓国にドサクサ紛れに
『竹島』を占領されてしまいました.

当時,日本は軍隊を持っていなかったため
仕方がないことではありますが,“領土”に
対する認識は,あまりにも軽いと言わざるを得ません.

北方領土にしても,尖閣諸島にしても,
もっともっと領土問題について,日本人は
意識を高めないといけないでしょうね.







<関連サイト>

・Wikipedia:『父親達の星条旗』


『父親達の星条旗』/『硫黄島からの手紙』公式サイト
posted by Ojiron at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍・資料・映画など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月03日

純粋に,日本って国はすごいと思う

昔,世界史の教科書とか,資料集の最後の方についてきた
世界年表です.↓

a7b61293.jpg*クリックして拡大



縦軸が,世界の地域,横軸が年代になっています.

紀元前1500年ごろから,国としてあったエジプトとかも,
すごいことです.

ローマ帝国とか,オスマントルコとか,世界の広範囲を長期間に
渡って,支配していたことも興味深いですね.

中国は,ものすごい勢いで,国が変わっています.
長くても300年くらいでしょうか.

でも,一番すごいのは,『日本』ではないでしょうか.

図の一番下です.『日本』はずっと『日本』のまま.

世界中,どこを探してもここまで長く続いた地域は
他にありません.

これは,やっぱり誇りに思っていいと思いますね.



ソース:mumurブログさん 日本すげええええええ!!!!!!!
posted by Ojiron at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の誇り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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