2006年09月16日

韓国の虐殺史

第2次大戦後,日本から無理矢理独立させられた『韓国』.
当時は世界でも最貧国の部類で,非常に混乱の時期でも
ありました.

韓国国内でも,さまざまな虐殺事件がありました.


1945年 ハンセン病院虐殺事件   84名

1948年 済州島事件        6〜7万名

1948年 麗水・順天反乱事件   5000名

1950年 国民保導連盟事件    30万名

1950年 大田刑務所虐殺事件  1800名

1950年 国民防衛軍事件     数十万名


詳しくはこちら→■戦後韓国の虐殺事件


朝鮮戦争中には,表立っていない事件が,
数多くあったと考えられています.


そして,ベトナムでも...



■金の為に参加し、虐殺を繰り返したベトナム戦争

 1960年代に南ベトナム政権とベトナム解放民族戦線
(北ベトナム)が激突した。

南ベトナムを擁していたアメリカは防衛の名目に大規模な
軍隊を派遣し、北ベトナムも共産勢力を味方に付けて対抗した。

 このとき、アメリカ軍に派兵を申し出たのが韓国である。

日本との関係が途切れアメリカとも関係が悪化していた韓国は、
当時は世界最貧国の一つであった。

だから外貨欲しさに派兵を進言し、見返りに莫大な金をアメリカ
から受け取った。

 実際に8年間で延べ30万人も派兵し、10億$もアメリカから
金を受け取っている。

さらに北ベトナム軍に首都を占領され、アメリカがベトナムから
撤退したのだから、事実上の敗戦である。

そして勝利した北ベトナムから見れば、韓国は明確に侵略国である。


 4年間の太平洋戦争をあれだけ激しく糾弾するのに、自分たちの
8年間の侵略行為は知らぬ存ぜぬで惚ける……これが韓国である。

さらにベトナム派兵は1999年まで韓国内ではほとんど論じられて
いなかった。

20年間も韓国人の大人は全員が口を閉ざして隠蔽しあっていた
のである。

 韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965〜73年。

こうした残虐行為のねらいは、ベトナム中部の3省(ビンディン、
クアンガイ、フーイェン)から農民を移住させて人口を減らし、
ベトコン(共産ゲリラ)の勢力伸張を阻止することにあったようだ。

 現地の自治体当局者によると、立ち退きを拒否した人々は、
韓国軍の手で組織的に惨殺されたという。しかも犠牲者の多くは、
老人や女性、子供だった。

 歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、
勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査の


おかげだ。彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム
政府の文書を発見した。

 生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くは
ベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。

 グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、
アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。

 当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見て
すぐに逃げた。近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に
次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に
暴行を加えたという。

 韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、
防空壕に追い込んだ。残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。
次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が
空気を引き裂いた。トアイはとっさに頭を隠した。

 硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは
急いで家族がいた場所へ行った。

 防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。
防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。
トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、
ここへ戻ることはできなかったという。

 「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や
水田はかけがえのないものだ」。トアイはそう言って泣きだした。

「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村を
めちゃくちゃに破壊してしまった」

 こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。

67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムも
その1人だ。

 チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から
脱出した。韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、
すぐに手榴弾を投げ入れた。

チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、
「肉片しか見つからなかった」という。

 それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部に
こもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。

「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを
見た以上、そうせずにはいられなかった」

 グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。

67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業を
していたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。

 そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。

大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラに
なった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の
妻と4人の子供も含まれていた。

 虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に
落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。

チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。

 「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかである
わけがない」と、チャウは言う。

「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる」

 ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。

アンリン郡から海岸沿いに北へ向かえば、68年に米軍部隊が500人
以上の村人を虐殺したクアンガイ省ソンミ村がある。

 それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、米兵の
評判は必ずしも悪くない。地方公務員のファム・トゥ・サン(47)は
66年のテト(旧正月)のとき、米兵と一緒に遊んだりチューインガムや
キャンディーをもらったことを今も覚えている。

 だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍が
やって来た。

それから「67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた」と、
サンは語る。

「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」と、今は地元の
退役軍人会の会長を務めているチャムも言う。

 アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって
恐怖の的だった。

韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、殺すケースが
多かったからだ。

 こうした残虐行為が明るみに出てきたことに、ベトナム政府は
神経をとがらせている。

 虐殺があったこと自体は、政府首脳も承知している。

だがベトナム当局は、虐殺事件の報告書が国内で発表されることは
望んでいない。友好関係にある韓国政府はもちろん、ベトナムに
莫大な投資を行っている大宇や現代、三星といった韓国財閥の
不興を買うことを心配しているからだ。

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こういった事実は,韓国の教科書には一切の記述もありません.

日本に対して,『歴史教科書の歪曲』と叫ぶ韓国は,
こういう国です.



↓ベトナム人と韓国人の民度の差↓

面白いベトナム人と韓国人の会話(enjoy koreaより)

posted by Ojiron at 00:39| Comment(1) | TrackBack(0) | 韓国への反論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント

韓国人が長いkinsin-soukanの病んだ人種ってホントなのかい、、韓国人よ?!

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Posted by Dought KOREAN DNA at 2013年06月11日 01:23
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