2007年01月28日

【台湾有情】総統府に日本人の軌跡

【台湾有情】総統府に日本人の軌跡

日本から訪れた知人を案内したついでに、一般参観者に
混じって総統府を見学した。

取材で内部まで出入りする機会はあるものの、総統府が
観光客や住民に見せる“表の顔”に触れるのは初めて
だけに、興味があった。

 総統府の裏側にある出入り口では、来訪者はまず金属
探知機で身体検査を受ける。

カメラのほか携帯電話も持ち込みは許されず、自動小銃
を構えた憲兵があたりに、にらみを利かせている。

出迎えてくれた案内役のボランティアは親日的ないわゆる
「日本語世代」で、開口一番、こう言った。


 「日本は台湾を植民地にしていない。
疫病を一掃し、高いレベルの教育環境を整えたのです。
イギリスやフランスの植民地とは違います」


 内部に入って、まず目に飛び込んできたのは、歴代総統を
紹介する大型パネル。

日本の総督19人の顔写真も総統と同じ扱いで掲げられて
いた。

解説に耳を傾ければ、社会基盤整備など日本の政策が台湾
の発展を促した功績として熱く語られる。

 歴史認識では日本に厳しい中国通の知人は押し黙った末に、
別れ際にようやく口を開いた。

「戦後、われわれが自ら封印した日本人の軌跡が台湾では
今なお生きていた。しかも権力の中枢である総統府に…。
北京ではおよそ考えられない」。


 総統府の一般開放は週日の午前9時〜正午。

日本人は旅券が必要です。(長谷川周人)


<ソース>
・産経Web:【台湾有情】総統府に日本人の軌跡
・今日の韓流通信:【台湾有情】総統府に日本人の軌跡



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同じように日本の植民地だった,朝鮮とはえらい違いですな.

日本が『植民地にした』とは言え,当時の欧米の植民地だった
他の地域とは格段にレベルが違いました.

学校を作り,インフラを整備し,莫大な国家予算が投入されました.

韓国は,全くそれを忘れてしまったようですね.
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2006年11月25日

「コロネル シバ」


「マスコミが伝えない親日の話」より

http://mikomo.hp.infoseek.co.jp/index.html



ちょうど100年前の1902(明治35)年1月30日、日英
同盟が成立した。同盟締結を推進したのは、駐日公使マグドナ
ルドであった。マグドナルドは前年夏の賜暇休暇にロンドンに
帰るとソールズベリー首相と何度も会見し、7月15日には日
本公使館に林菫公使を訪ねて、日英同盟の構想を述べ、日本側
の意向を打診した。マグドナルドは翌日も林公使を訪問して、
イギリス側の熱意を示した。それからわずか半年後には異例の
スピードで同盟締結の運びとなった。

 イギリスが日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐとい
う点で利害が一致したからである。しかし、当時の超大国イギ
リスがその長年の伝統である「光栄ある孤立」政策をわずか半
年で一大転換し、なおかつその相手がアジアの非白人小国・日
本であるとは、いかにも思い切った決断である。その背景には
マグドナルド公使自身が一年前に経験した一大事件があった。

 1985(明治28)年、日清戦争に敗北して、清国が「眠れる
獅子」ではなく「眠れる豚」であることを露呈するや否や、列
強は飢えた狼のようにその肉に食らいついていった。三国干渉
により日本に遼東半島を返還させると、それをロシアがとりあ
げ、同時にドイツは膠州湾と青島、フランスは広州湾をむしり
とる。イギリスは日本が日清戦争後にまだ保障占領していた威
海衛を受け取り、さらにフランスとの均衡のためと主張して香
港島対岸の九龍をとった。

 こうした情況に民衆の不満は高まり、義和団と称する拳法の
結社があらわれた。呪文を念じて拳を行えば、刀槍によっても
傷つくことはない、と信じ、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を
滅ぼせ)」をスローガンとして、外国人やシナ人キリスト教徒
を襲うようになっていった。

 5月28日、義和団の暴徒が北京南西8キロにある張辛店駅
を襲って、火を放ち、電信設備を破壊した。北京在住の列強外
交団は、清国政府に暴徒鎮圧の要求を出す一方、天津の外港に
停泊する列国の軍艦から、混成の海軍陸戦隊400名あまりを
北京に呼び寄せた。日本も軍艦愛宕からの25名の将兵が参加
した。今風に言えば多国籍軍である。

 6月4日、北京?天津間の鉄道が、義和団によって破壊され
た。北京の外交団は万一の場合の脱出路を奪われた形となった。
すぐに2千の第2次混成部隊が出発したが、鉄道の修復に時間
がかかり、いつ北京にたどり着けるか、分からない状態だった。

 北京の公使館地域は東西約9百メートル、南北約8百メート
ルの方形であり、ここに欧米10カ国と日本の公使館があった。
6月7日、各国の公使館付き武官と陸戦隊の指揮官がイギリス
公使館に集まって、具体的な防衛計画が話し合われた。

 日本の代表は、この4月に赴任したばかりの柴五郎中佐であ
った。柴は英仏語に堪能で、また地域の詳細な防御計画も持参
していたが、始めのうちは各国代表の議論を黙って聴いていた。
日本の兵力が少ないこともあったが、まずは各国の人物、能力
を見極めようという腹だった。さらに東洋人がいきなり議論を
リードしては欧米人の反発を招くということも十分に心得てい
た。

 柴は会議の流れを掴むと、目立たない形で、自分の計画に合
う意見については「セ・シ・ボン(結構ですな)」と賛意を示
し、また防御計画の要については、ちょっとヒントを与えると、
別の列席者がさも自分の発案であるかのように提案する、とい
う形で、巧みに議論を誘導して、自分の案に近い結論に持って
いった。
 6月11日、日本公使館の杉山書記生が惨殺された。救援部
隊が来ないかと北京城外に出て、戻ろうとした所を清国の警備
部隊に捕まり、心臓を抉り抜かれ、その心臓は部隊長に献上さ
れた。外交団は治安維持の頼みとしていた清国官憲までも外国
人襲撃に加わったことに衝撃を受けた。

 13日、公使館区域に4,5百人の義和団が襲いかかった。
おおぜいたむろしている清国官兵は、見て見ぬふりをしている。
しかし刀や槍を振り回す暴徒は、列国将兵の銃撃に撃退された。
14日、怒った暴徒は、公使館区域に隣接するシナ人キリスト
教民の地域を襲った。凄まじい男たちの怒号と、女子どもの悲
鳴が公使館区域まで聞こえてきた。一晩で惨殺された教民は千
人を数えた。

 15日、タイムズの特派員G・モリソンはイギリス公使マグ
ドナルドを説き、20名の英兵を率いて5百人余りの教民を救
出してきた。しかし、それだけの人数を収容する場所がない。
困ったモリソンが、シナ事情に詳しそうな柴中佐に相談すると、
柴は即座に公使館地域の中央北側にある5千坪もの粛親王府を
提案した。粛親王は開明派で、日本の近代化政策を評価してい
た。柴が事情を話してかけあうと、教民収容を快諾した。

 この王府は小高くなっており、ここを奪われれば、公使館地
域全体を見下ろす形で制圧されてしまう。この事に気づいてい
た柴は教民たちを動員して保塁を築き始めた。欧米人と違って、
日本人の多くはシナ語を話せたため、彼らは日本兵によくなつ
き、熱心に協力した。また30名ほどの義勇兵も出て、日本軍
と共に自衛に立ち上がった。

 6月19日、シナ政府から24時間以内に外国人全員の北京
退去を命ずる通牒があった。抗議に赴いたドイツ大使は清国兵
にいきなり銃撃され、即死した。

 20日午後からは、地域の警備についていた清国軍が公然と
攻撃を始めた。暴徒とは異なり近代装備を持つ清国軍は大砲ま
で持ち出して、公使館区域を砲撃した。

 最初の2日間の戦いで区域の東北端に位置するオーストリー
とベルギーの公使館が火を放たれて、焼かれた。西正面と北正
面を受け持っていたイギリス兵は、イギリス公使館が西から攻
撃を受けると、そちらに移動してしまった。

 北正面ががらあきとなり、清国軍が侵入するには絶好の隙間
が生じてしまった。少数の日本将兵と教民たちがたてこもる北
辺の粛親王府が破られれば、そこから清国軍は区域全体を見下
ろし、砲撃することができる。清国軍は激しい攻撃を加えてき
た。

 区域全体の総指揮官に推されたイギリス公使マグドナルドは、
粛親王府の守備を固めるために、イタリア、フランス、オース
トリー、ドイツの兵に柴中佐の指揮下に入るよう命じたが、兵
達は土地は広く、建物は迷路のように錯綜する王府を見ると、
「とてもじゃないが守りきれない」とそれぞれ自国の公使団保
護に帰ってしまった。

 王府防衛の有様を柴中佐の指揮下に留まっていたイギリス人
義勇兵の一人B・シンプソンは次のように日記に記した。

 数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍
は、王府の高い壁の守備にあたっていた。その壁はどこま
でも延々とつづき、それを守るには少なくとも5百名の兵
を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵ま
れていた。公使館付き武官のリュウトナン・コロネル・シ
バ(柴中佐)である。・・・

 この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。
彼は部下たちを組織し、さらに大勢の教民たちを召集して、
前線を強化していた。実のところ、彼はなすべきことをす
べてやっていた。ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒し
ていることを感じる

 この後、王府を守る柴中佐以下の奮戦は、8月13日に天津
からの救援軍が北京に着くまで、2ヶ月余り続く。睡眠時間は
3,4時間。大砲で壁に穴をあけて侵入してくる敵兵を撃退す
るという戦いが繰り返し行われた。総指揮官マグドナルド公使
は、最激戦地で戦う柴への信頼を日ごとに増していった。イタ
リア大使館が焼け落ちた後のイタリア将兵27名や、イギリス
人義勇兵を柴の指揮下につけるなど迅速的確な支援を行った。

 6月27日には、夜明けと共に王府に対する熾烈な一斉攻撃
が行われた。多勢の清国兵は惜しみなく弾丸を撃ちかけてくる。
弾薬に乏しい籠城軍は、一発必中で応戦しなければならない。
午後3時頃、ついに大砲で壁に穴を明けて、敵兵が喊声を上げ
ながら北の霊殿に突入してきた。柴は敵兵が充満するのを待っ
てから、内壁にあけておいた銃眼から一斉射撃をした。敵は2
0余の死体を遺棄したまま、入ってきた穴から逃げていった。
この戦果は籠城者の間にたちまち知れ渡って、全軍の志気を大
いに鼓舞した。

 イギリス公使館の書記生ランスロット・ジャイルズは、次の
ように記している。

 王府への攻撃があまりにも激しいので、夜明け前から援
軍が送られた。王府で指揮をとっているのは、日本の柴中
佐である。・・・

 日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士
官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。日本兵の勇
気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵がこれに
つづく。しかし日本兵がずば抜けて一番だと思う。
 王府を守りながらも、柴中佐と日本の将兵は他の戦線でも頼
りにされるようになっていった。アメリカが守っている保塁が
激しい砲撃を受けた時、応援にかけつけたドイツ、イギリス兵
との間で、いっそ突撃して大砲を奪ってはどうか、という作戦
が提案され、激しい議論になった。そこで柴中佐の意見を聞こ
うということになり、呼び出された柴が、成功の公算はあるが、
今は我が方の犠牲を最小にすべき時と判断を下すと、もめてい
た軍議はすぐにまとまった。

 イギリス公使館の正面の壁に穴があけられ、数百の清国兵が
乱入した時は、柴中佐は安藤大尉以下8名を救援に向かわせた。
最も広壮なイギリス公使館には各国の婦女子や負傷者が収容さ
れていたのである。

 安藤大尉は、サーベルを振りかざして清国兵に斬りかかり、
たちまち数名を切り伏せた。つづく日本兵も次々に敵兵を突き
刺すと、清国兵は浮き足立ち、われさきにと壁の外に逃げ出し
た。館内の敵を一掃すると、今度はイギリス兵が出撃して、3
0余名の敵を倒した。安藤大尉らの奮戦は、イギリス公使館に
避難していた人々の目の前で行われたため、日本兵の勇敢さは
讃歎の的となり、のちのちまで一同の語りぐさとなった。

 後に体験者の日記を発掘して「北京籠城」という本をまとめ
上げたピーター・フレミングは本の中でこう記述している。

 戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバ
ックボーンであり、頭脳であった。・・・ 日本軍を指揮
した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあっ
たばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。

 当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、
この籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生
として、みなの目に映るようになった。

 日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の
賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接
的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本
人だけである。

 救援の連合軍が、清国軍や義和団と戦いながら、ついに北京
にたどりついたのは、8月13日のことだった。総勢1万6千
の半ばを日本から駆けつけた第5師団が占めていた。その他、
ロシア3千、英米が各2千、フランス8百などである。籠城し
ていた柴中佐以下は、ほとんど弾薬も尽きた状態だった。

 14日、西太后の一行は西安に向けて脱出した。その午後、
北京入城後最初の列国指揮官会議が開かれた。冒頭マグドナル
ド公使が、籠城の経過について報告した。武器、食糧の窮迫、
守兵の不足、将兵の勇敢さと不屈の意志、不眠不休の戦い、そ
して公使は最後にこう付け加えた。

 北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰す
べきものである。

 柴中佐が日本軍将兵と日本人義勇兵にこの言葉を伝えると、
嗚咽の声が漏れた。誰もが祖国の名誉を守り、欧米の人々から
も認められた誇らしい感情を味わっていた。

 柴中佐はその後も日本軍占領地域では連合軍兵士による略奪
を一切許さず、その治安の良さは市民の間のみならず、連合軍
の間でも評判となった。

 柴中佐には欧米各国からも勲章授与が相継ぎ、またタイムズ
の記者モリソンの報道もあいまってコロネル・シバは欧米で広
く知られる最初の日本人となった。その後、総指揮官を務めた
マグドナルドは駐日大使に転じ、日英同盟の締結を強力に押し
進めていくことになる。柴中佐と日本将兵の見せた奮戦ぶりか
ら、日本こそは大英帝国が頼みにするに足る国と確信したので
あろう。
posted by Ojiron at 14:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の誇り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月12日

『父親達の星条旗』見てきました.

近くのシネコンで,映画を見てきました.
夜8時以降だと,¥1000で見ることができるので,
見たい映画があると,結構夜見に行くことが多いですね.


今日は,CMとか予告編を見てて,かなり見たいと思っていた,
『父親達の星条旗』を見てきました.

監督は,クリント・イーストウッド

『ダーティハリー』役でおなじみですね.


この映画の舞台は,第2次大戦末期の硫黄島

日本にとってもアメリカにとっても,軍事上重要な拠点だった
『硫黄島』をめぐる攻防は,今も語り継がれています.


1945年2月19日,アメリカ海兵隊は,硫黄島への上陸を開始.

同3月26日まで,日本軍の抵抗が続きました.

日本軍は21,000名の守備兵力のうち20,129名が戦死.

アメリカ軍も,戦死者 6,821名,負傷者21,865名の大損害を受けました.

太平洋戦争後期の島嶼防衛戦で,アメリカ軍の損害が日本軍の損害を
上回った唯一の戦闘だったそうです.→Wikipedia:硫黄島の戦い


上陸したアメリカ軍の第1目標とされたのは,硫黄島南部の
“摺鉢山”の攻略.

この山を占拠後,山頂に立てられた『星条旗』が,この映画の
中心になります.

Iwo Jima flag raising

この写真を撮影した,AP通信の写真家ジョー・ローゼンタールは,
後に『ピューリッツァー賞(写真部門)』を受賞しました.


戦場を駈けずり回る兵士の葛藤,戦争のヒーローを作り上げたい,
アメリカ政府.戦費調達のためのプロパガンダ...

翻弄される主人公達の心の“揺れ”がメインテーマになって
います.



映画の冒頭から続く圧倒的な戦闘シーン.

『戦争って,こういうことなんだ...』ってことを,
本当に実感できる気がします.

よく,祖父母世代から,戦時中の悲惨な状況を,資料で見たり,
聞いたり,そういう体験って,結構あると思います.

でも,実際に戦場で起こっていたことは,なにかしら,
フィルターが掛かって,ぼんやりとした実感がわかない,
何かハッキリしないような,そんな認識でしかなかった.

それが,画面を通じて語りかけてくる圧倒的な『現実』に,
戦争の悲惨さが,心の奥深くまで,染み込んでくる,そんな
印象でした.

映画としては,どちらかというと,戦争シーンよりは,
主人公達の苦悩がメインではありますが.



硫黄島で戦った我々の“祖父”達は,何を思い戦ったのか?

恐らく,硫黄島の後ろいる遠い祖国,彼らの愛する家族,兄弟,親を
思っていたのではないでしょうか?

『ここで1日持ちこたえれば,それだけ本土決戦を伸ばせる』と.

日本軍,アメリカ軍,ともに戦争の犠牲になった方々に
敬意を捧げたい気持ちでいっぱいですね.


でも,今の日本は,彼らが守るに値する国であったかどうか,
本当に恥ずかしく感じることが多いです.

靖国で眠る英霊に,感謝の気持ちを忘れないで,
生きていたい,そう思います.



この映画,硫黄島の戦いを日米双方の視点から描いた
「硫黄島プロジェクト」のアメリカ側視点の作品だそうです.

もう1本,日本側の視点から描いた,『硫黄島からの手紙』も,
間もなく公開になります.

硫黄島でアメリカ兵と死闘を繰り広げた栗林忠道中将指揮による
日本軍と祖国に残された家族らが描かれます.

ストーリーはタイトルとなっている栗林中将が家族へと向けた手紙を
基に展開されるそうです.

栗林中将役は,渡辺謙さんだとか.

こっちの映画も楽しみです.


劇中で,アメリカ軍の指揮官が,隊員に作戦の説明を
するシーンがあります.

『今度は,サイパンやグアムとは訳が違う.
 正真正銘の日本の領土だ.
 心してかかるように.』(うろ覚えですが・・・)

と,隊員に語りかけます.

サイパンやグアムは,日本軍の侵攻で得た領土ですが,
硫黄島は,元々の日本の領土.

『得たものを手放す』のと,『保持していたものを手放す』
のは,違う次元ということですね.

硫黄島を守った日本兵達は,それを十分わかって
いたことでしょう.

その一方で,戦後,韓国にドサクサ紛れに
『竹島』を占領されてしまいました.

当時,日本は軍隊を持っていなかったため
仕方がないことではありますが,“領土”に
対する認識は,あまりにも軽いと言わざるを得ません.

北方領土にしても,尖閣諸島にしても,
もっともっと領土問題について,日本人は
意識を高めないといけないでしょうね.







<関連サイト>

・Wikipedia:『父親達の星条旗』


『父親達の星条旗』/『硫黄島からの手紙』公式サイト
posted by Ojiron at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍・資料・映画など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月03日

純粋に,日本って国はすごいと思う

昔,世界史の教科書とか,資料集の最後の方についてきた
世界年表です.↓

a7b61293.jpg*クリックして拡大



縦軸が,世界の地域,横軸が年代になっています.

紀元前1500年ごろから,国としてあったエジプトとかも,
すごいことです.

ローマ帝国とか,オスマントルコとか,世界の広範囲を長期間に
渡って,支配していたことも興味深いですね.

中国は,ものすごい勢いで,国が変わっています.
長くても300年くらいでしょうか.

でも,一番すごいのは,『日本』ではないでしょうか.

図の一番下です.『日本』はずっと『日本』のまま.

世界中,どこを探してもここまで長く続いた地域は
他にありません.

これは,やっぱり誇りに思っていいと思いますね.



ソース:mumurブログさん 日本すげええええええ!!!!!!!
posted by Ojiron at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の誇り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月23日

サッカーの日本サポーターについて

2002年,日韓W杯の時の,日本サポーターの
心温まるエピソードを紹介します.



フーリガン不発、温かく迎えられ騒げず(日刊スポーツ)

 「一人の逮捕者も出さなかった」。3日付の英各紙はW杯のイングランド
第1戦が行われた 埼玉スタジアムでフーリガン(暴力的なファン)が
現れなかったことを大きく伝えた。

 ミラー紙は、スタジアムの日本人のうち少なくとも3万人がイングランド
を熱狂的に応援したと 伝え、約5000人の英国人ファンは彼らのイング
ランドへの「崇拝にも似た傾倒ぶり」に圧倒され、友好的に振る舞うしか
なかったと分析。

 サン紙も、ベッカムの人気もあったが、日本人にここまで温かく迎えられ
ては騒ぎようがない、 という調子だ。

 インディペンデント紙は、規則をきちんと守らせる点で日本を上回る国は
ないと伝えた。


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読売新聞 2002/06/11 掲載記事

【ロンドン10日=土生修一】辛口で定評のある英国メディアが、W杯での
日本人の対応を手放しで褒めちぎっている。

「日本人の品行の良さには驚いた。こっちも影響され、野外パーティーが
終わると自分から掃除していた。こんなことは初めて。今まで、なんて自分
勝手な国に住んでいたんだろう」。


9日付の英高級紙サンデー・テレグラフは、W杯観戦で来日した英国の若者
のコメントを紹介、「日本体験が英国人に集団治療のような効果を発揮して
いる」と報じた。

「3万人以上の日本人が英国国歌を歌ってわがチームを熱狂的に応援した。
顔中、イングランド旗にした日本人もいる。私の頭がおかしくなったのでは
ない。これは本当なんだ」(大衆紙デイリー・ミラー)


日本人は、他の外国チームにも好意的だとする論調も目立つ。

「カメルーン戦は劇的な引き分け。仕事を終え午前2時に宿舎に戻ると、
従業員たちが屋外で拍手で迎えてくれ、大感激した」(アイルランド記者)、

「日本と同じグループなのに、どこへ行っても応援してくれる。信じられ
ない」(ベルギー選手)


英各紙は、この全方位外交が各国のサポーターにも影響し、対戦チームの
サポーター同士が記念撮影したり、談笑するなど、欧州では考えられない
光景が各地で見られ、フーリガンが出る幕はないとの特派員記事を掲載。

経済紙フィナンシャル・タイムズも、「日本人は、憎しみなき熱狂で、
W杯をより豊かにしてくれた」と最大級の賛辞を送っている。

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サッカーのサポーターは,万国共通で熱狂的ですが,
日本のサポーターの振る舞いは,海外からは好意的に
受け止められたようです.


ちょっとミーハー的なこともあるでしょうが,
日本が褒められるのは,ウレシイことですね.

posted by Ojiron at 01:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の誇り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月21日

「核」論議をしてもいけないとは情けない...

「核」論議 外相の答弁は不適切だ(朝日新聞06/10/20付社説)

 なんとも危うく、不見識な発言だ。核兵器の保有に関する麻生外相の
国会答弁は聞き捨てならない。

 「隣の国が(核兵器を)持つとなった時に、一つの考え方として
いろいろな議論をしておくのは大事だ」

 「無知なままいくより、きちんと勉強した上で持たないというのも
一つの選択だ」

 日本も核兵器を持つべきかどうか。そんな議論を始めようということ
なのか。

 外相の指摘を待つまでもなく、この問題はすでに自由に論議されている。
「核の抑止力」は国際政治を論じるうえで中心テーマのひとつだ。

 むろん、国内では核保有への反対論が主流だが、政治学者らのなかには、
日本が核武装を論議するだけでも中国や米国を牽制(けんせい)できると
いう意見もある。

 しかし、外相という立場でこの論議を後押しするような発言をすると
なると、話は別だ。

 政府の立場は「核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませず」の非核三原則
を維持することで一貫している。安倍首相も「この話はすでに終わった議論
だ」とはっきり語っている。

 なのに、その政府で外交政策の責任者をつとめる人物が「議論を」と
言えば、では日本は政策変更を考えているのか、と受け取られる恐れがある。
間違ったメッセージを世界に発しかねない。

 さきに自民党の中川昭一政調会長が同様の発言をしたとき、そのニュース
は世界各国で報じられた。北朝鮮が持てば、次は日本か、韓国かなどと
「核ドミノ」の懸念が語られている時である。注目を集めるのは当然だ。


 麻生氏の発言は、ここにもうひと波乱起こそうということなのだろうか。
非核三原則は守ると言いつつも、この時期に、そんな危うい発言を繰り返す
外相の見識を疑う。

 いま、国際社会は北朝鮮に核を放棄させるため国連の制裁決議で結束し、
圧力をかけようとしている。ライス米国務長官は日本、韓国、中国を駆け
めぐる。中国の唐家シュワン国務委員らは平壌に乗り込んで、金正日総書記
の説得にあたった。懸命の外交努力が続いているのだ。

 そのときに日本の外相が核について語るべきことがあるとすれば、それは
なぜ日本は持たないかという、核不拡散にかける思いのはずだ。核保有の問題
をもてあそぶかのような発言は慎むべきだ。

 批判に対し、麻生氏は「言論を封殺するという考え方にはくみしない」
などと答えた。話をすり替えてはいけない。外相や自民党政調会長といった、
政府与党の重い立場にある人の発言として不適切だと、その内容を問うている
のだ。「言論の自由」を振りかざす問題ではない。

 北朝鮮にどうやって核を手放させるのか。世界が知恵を絞っている時に、
政府与党から方向違いのメッセージが出され、誤解を招くのは迷惑だ。




>間違ったメッセージを世界に発しかねない。

別に間違っていません.
どんなことだって,議論すべきでしょう.
その上で,次の方針を決めればいいだけ.




>「言論の自由」を振りかざす問題ではない。

政府の誰であれ,議論することを発言して,何が問題?
発言自体を封じてしまって,どんな『自由』があるんだか?



>誤解を招くのは迷惑だ。

朝日新聞こそ,日本を誤った道に導きかねない.
ホント迷惑極まりない!



日本の経済力,技術力は世界に知れ渡っています.

世論が『核兵器を持つべきだ』となったら,即時に
持てる技量が日本にはある訳です.

“議論をする”というアピールだけでも,“抑止力”として
多少は機能するんだと思うけど.

まず,『持つメリット』,『持たざるデメリット』双方をよく
議論して国民が納得した状態にするべきでしょう.

その上で初めて『非核3原則』なり,『核保有』なり,
決定すればいい.

“考えてもいけない”とは,甚だなさけないことです...もうやだ〜(悲しい顔)



posted by Ojiron at 01:31| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月13日

なんだこの他人事ぶりは...

<朝鮮日報>
金大中前大統領は太陽政策より国の運命を心配せよ

金大中(キム・デジュン)前大統領は11日、全南大で講演を行い、
「『太陽政策は失敗した。包容政策は中止すべきだ』という話が出ているが、
北朝鮮が太陽政策を理由に核開発をすると言ったことはない」と語った。


--------------------------------------------------------------------

『太陽政策』が,北朝鮮を暴走させたのは,明らかです.

北朝鮮は,金大中政権と盧武鉉政権の8年間に8兆ウォン(約1兆円)相当の
支援,首脳会談の代価として4億5000万ドル(約540億円)の現金を
受け取っています.

この資金以外にも,観光産業(金剛山観光事業)とか,企業誘致(開城工業
団地事業)とか,金をタンマリ支援しています.

その『お礼』が,核実験ですよ.

ところが,これだけ東アジアを混乱させておいて,その責任は,アメリカ
なんだとか...

【核開発】「核実験」に韓国内で米批判噴出…駐韓米大使は反発
(朝鮮日報)

ホントに現実を見るつもりがあるのか,常識では考えられない愚考...


先日のアベチャン訪韓の時,ノムタンは,延々『歴史認識』をクドクド...


日韓会談:大統領「歴史認識」40分論じ共同声明見送りに(毎日新聞)


物事の大小とか,優先順位とか,全く考えないんでしょうか?

南北とも,朝鮮は終わっていますね...


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世界なんて終わりなさい世界なんて終わりなさい
畑亜貴

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posted by Ojiron at 01:08| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月11日

『あいまい戦術』の真意は伝わったのか?

【社説】ようやく実現した韓日首脳会談(朝鮮日報)

9日、北朝鮮による核実験の衝撃の中、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領と
日本の安倍晋三首相による首脳会談が開かれた.

 両首脳は会談後に予定していた共同での報道文の発表を土壇場で中止した。

共同記者会見も開かれなかった。

代わりに別々に記者会見を開き「それぞれの立場」を明らかにした。
具体的な合意や共同決定にまでは至らなかったということになる。

 しかしながら、今回の会談は袋小路に突き当たっていた韓日関係に
正常化の糸口がもたらされたという点で意義深いものだ。

 韓日両国の関係は、小泉前首相の靖国神社参拝問題や歴史教科書の歪曲
(わいきょく)問題、独島(日本名竹島)問題などで昨年の初めから
正常な外交関係がほぼ断絶した状態が続いていた。

こうした外交上の対立は、北朝鮮の核開発問題をはじめとする差し迫った
懸案に対する両国の共同歩調を妨げ、北東アジアの安定を阻害する要因と
なってきた。

 韓日首脳は今回の会談で北朝鮮の核実験について、「決して容認できない
という認識で一致を見た。異論はなかった」と明らかにした。

また盧武鉉大統領は「今後も韓日や韓米日の枠組みで協議を継続していく
ことで合意した」と語った。

 今後は「共通の認識」を「行動の一致」につなげていけるかどうかが
カギとなる。

靖国神社参拝について安倍首相は「政治・外交問題となった以上、『行く』
『行かない』といった話はしない」としながらも、「植民地支配と侵略戦争
について謝罪した村山談話(1995年)と、従軍慰安婦の存在を認めて謝罪
した河野談話(1993年)を踏襲する」とした。


 盧大統領も「即答を要求しはしなかったが(靖国神社には)
当然行かないと思う。
対話を通して解決していく」とし、
「適切な時期に日本を訪問する」と明らかにした。

 ひとまず両首脳は閉ざされていた対話のチャンネルを開いたことになる。
今後の課題は、これをいかに実践していくか、ということになる。

 安倍首相の「行く、行かないといった話はしたくない」といったあいまいな
表現では現在の事態の解決にはならない。

せいぜい悪い状況を避けるのが精いっぱいだろう。北東アジアの繁栄のため、
そして日本自身のためにも、決断を下さなければならないだろう。

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靖国に『行く,行かない』をはっきりさせないアベチャンですが,
それなりに効果があったと思っていました.

小泉さんのように,堂々としちゃうのは,国民としては喜ばしいこと
ですが,サヨク的な人や中韓が,ダダをこねてしまい,『靖国』だけに,
議論が集中してしまいがちです.

他にももっともっと,大事な議論があると思うんだけどな.

アベチャンの戦法として,とりあえず“あいまい”にすることで,
『靖国』を保留できてるような気がします.

官房長官時代から,靖国参拝はしてるんだし,これからもしようと
思ってるはずなんですよね.

要は,“あいまい”にすることが,『靖国反対派』への配慮の
現れなんですが,ノムさんの場合,思いっきり勘違いしちゃってますから.

まあ,韓国側の言う,『靖国』,『歴史教科書歪曲』,『竹島』については,
全くの妄言なのははっきりしていますから,言うべきことをちゃんと
言わないと...

真意が伝わらないなら,今までの『土下座外交』と変わらないんだし,
そうじゃないと国民が思ったからこそ,首相になれたんだと
思うんだけどなあ.
posted by Ojiron at 03:58| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月10日

とうとうやったか...北の核実験...

北朝鮮が核実験か 韓国メディアが伝える(産経新聞)

 韓国の聯合ニュースは9日、韓国政府当局者が北朝鮮が
核実験を行ったとの情報があると述べたと報じた。(共同)



核実験「安全に成功裏に実行」平壌放送(朝日新聞)

北朝鮮国営の平壌放送も9日正午、定時ニュースの2番目の項目として
地下核実験の実施を伝え、次のように報じた。

 「全国の全人民が社会主義強盛大国建設で一大飛躍を創造している
激動的な時期に、わが科学研究部門では主体95(2006年)10月9日、
地下核実験を安全に成功裏に実行した。

科学的打算と綿密な計算によって実行された今回の核実験は、放射能流出
などの危険が全くなかったということが確認された。

核実験は100%われわれの知恵と技術によって実行されたものであり、
強力な自衛的国防力を渇望してきたわが軍隊と人民に大きな鼓舞と喜びを
与えた歴史的な出来事である。

核実験は、朝鮮半島と周辺地域の平和と安定を守護することに寄与する
ことになる」 

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とうとう,最後のカードを出してしまいました.
これで,一層の『経済制裁』,ひょっとすると『空爆』などの
軍事制裁もあるかもしれません.

まあ,“自業自得”ですね,将軍さま.



その一方で,ありえないニュースも...↓



■「日本へのミサイルを迎撃するパトリオット配備、許さない!」
  市民団体座り込み、PAC3陸揚げできず…沖縄・うるま


嘉手納基地に配備される最新のパトリオットミサイルPAC3の
本体を積んだ貨物船が今朝、うるま市の天願桟橋に到着しました。

ゲート前では配備に反対する市民団体が座り込みを行っていて
嘉手納基地への搬入の作業は現在の所行われていません。

パトリオットミサイルが陸揚げされる天願桟橋では沖縄平和運動
センターなどの市民団体が昨夜から阻止行動を行っていて,座り込みの
開始に合わせて開かれた集会にはおよそ250人が参加しました。

集会の参加者はパトリオットの配備ゆるさないぞ基地の機能強化
反対などをシュプレヒコールを繰り返した後ミサイルを積んだ貨物船が
入港しないか一晩中監視活動を続けました。

宮城歓記者報告「一夜明けて天願桟橋では市民団体がパトリオットミサイルが
搬入されないかどうか警戒を強めています」。

一方パトリオットミサイルを積んだ貨物船は今朝から天願桟橋の沖に
姿を現し午前8時45分着岸しました。

しかし天願桟橋のゲート前で座り込みを行っている市民団体のメンバーが、
陸揚げにあたる作業員や、アメリカ軍の兵士が基地の中に入らないよう
監視しているため現在の所、嘉手納基地への搬入の作業は始まっていません。

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今の現状の『日本国憲法』では,国民の安全が守られていません.
あくまで,“専守防衛”で,攻撃されない限り,守ることが
できない訳です.

戦後60年経った今,世界情勢は,憲法発布当時からは,想像がつかなかった
であろうレベルまで変化しています.

時代にあった法律に変わることは当然で,国民の安全を守るのが,
国家としての第1の義務であるのは,当たり前のこと.

その安全を守るミサイルに対して反対する意味がわかりません.

『本末転倒』な市民団体なんて,いらないですよ,ホント.




posted by Ojiron at 01:41| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月02日

100年の時を経て果たされた『恩』

<明治串本新聞>
→ニュースソース:enjoykorea



1890年9月16日、オスマン・トルコ帝国の使節団一行を乗せた軍艦が
和歌山県串本・大島沖で遭難。
乗組員650余名中587名の犠牲を出す大惨事となった。


日本が明治維新の諸改革を行っていたころ、オスマン・トルコ帝国でも、
近代化改革や欧米列強への対等な扱いを求めて努力していた。

皇帝アブドル・ハミド二世は視察のため、日本に特派使節を派遣した。
一行はトルコ軍艦エルトゥールル号で1890年6月5日来日、9月15日に
帰途についた。

 しかし、一行は台風に遭遇し、和歌山県串本・大島の樫野埼沖で
遭難した。
650余名の乗組員のうち587名が死亡、生存者69名という大惨事になった。


 エルトゥールル号の遭難現場は惨憺たる状況だった。
第一発見者の灯台守は言う。

「9 月16日の真夜中、服はぼろぼろで裸同然、全身傷だらけの男が
やってきた。海で遭難した外国人であることはすぐにわかった。
『万国信号書』を見せると、彼がトルコ軍艦に乗っていたトルコ人で
あること、また多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。
救助に向かった村の男たちが岩場の海岸におりると、おびただしい船の
破片と遺体があった。男たちは裸になって、息がある人たちを抱き起こし、
冷え切った体を暖めた」


 助けられた人々は村の寺や小学校に収容され、手厚い介護を受けた。
村では非常食用の鶏など、村にあるすべてのものを提供した。
こうして69名の命は救われたのである。



そして、ページをめくると、



1985 年3月、イランとイラクが戦争をしていたときのことである。

イラクのフセイン大統領は、48時間の猶予ののち、イラン上空を飛ぶ
すべての航空機を無差別に攻撃するとの指令を出した。

さっそく世界各国から、自国の国民を助けるために救援機が出されたが、
日本政府の対応は遅れ、日本企業で働く日本人とその家族がイランに
取り残されてしまった。

彼らはイランのテヘラン空港で、帰国のすべもなくパニック状態に
なっていた。

 タイムリミットを目前にして、2機の飛行機が空港に降り立った。
トルコから日本人救助のために送られてきた救援機だった。
トルコ機は日本人215名を乗せて、イラン上空を脱出しトルコに向かった。


 なぜ、トルコは日本人を救ってくれたのか。元駐日トルコ大使は
こう説明した。

「私たちは、日本人がエルトゥールル号の遭難事故のさいに示してくれた、
献身的な救助活動を忘れていません。
教科書にもその話はのっていて、トルコ人ならだれでもしっています。
だから、困っている日本人を助けるのは、私たちにとって当然のこと
なのです。」

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えー話じゃないですかぁ〜.

100年前の恩返しですよ.
ホント,『トルコ』って国は,すばらしい.

昔の日本では,こういう逸話,結構あるんですね.

僕たちのちょっと前の祖先は,回りまわって,僕たちを
助けてくれています.

そんな誇らしい祖先に対して,恥ずかしくない今の日本を
作っていかなくちゃって思いますね.


<関連サイト>

・wikipedia:エルトゥールル号遭難事件

この事件について,もう少し詳しく知りたい方は,こちらを
見てください.↑




・wikipedia:トルコ航空

ぎりぎりの状態で脱出策が講じられた末に、イラン・イラクの隣国トルコが
航空機の派遣を申し出、2機のトルコ航空機がテヘランへ派遣された。

2機のトルコ航空機が215人の在留邦人を乗せてイラン国境を越えて
トルコ領空に入ったのはタイムリミット直前のことであった。

この事件はのちにエルトゥールル号遭難事件とともにインターネット上の
電子掲示板やメールマガジンを通じて親日国トルコのイメージを広めること
に貢献し、テレビでもTBSのクイズ番組「日立 世界・ふしぎ発見!」、
フジテレビのバラエティ番組「奇跡体験!アンビリバボー」や、
2004年にはNHKのドキュメント番組「プロジェクトX」でも取り上げられた。


また、湾岸戦争勃発1ヶ月前の1990年12月に、当時国会議員だった
アントニオ猪木が自らイラクに赴いて平和を訴えるイベントを行い、
サッダーム・フセイン政権によってイラクからの出国を差し止められ
事実上の人質として抑留されていた在留日本人の解放を果たしたとき、
チャーター便を出してこれを助けたのもトルコ航空であり、
日本との縁は深い。

posted by Ojiron at 00:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 親日国を知る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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